コンクールの迷信

 毎年吹奏楽コンクールが終わるとあちこちでいろいろな憶測やウワサがささやかれ、インターネット上でもあちこちの掲示板が荒れます。「点数が操作されたに違いない」「出演者と癒着している審査員がいる」「カネが動いたに違いない」「審査員は先入観をもっている」「審査方法がおかしい」「審査員の選び方がおかしい」「審査員の好みで判断されてしまった」「演奏中にメールをしている審査員がいる」「寝ている審査員がいる」「評価とコメントが矛盾している」などなど。

 気持ちはわかるのですが、それらのほとんどは根拠のない迷信や誤解です。ひとつずつ解き明かしていきましょう。一種の FAQ のようなものとして読んでください。

点数が操作されているのでは?

 あり得ません。審査員はそれぞれに評価を出し、それが連盟の役員たちによってノートパソコンに入力されて処理され、プリントアウトされた点数の一覧表が審査員に配られます。そこで審査員は自分の出した評価が正しく入力されているかをチェックします。たいてい Microsoft Excel が使われていて、点数順にソートされています。その点数順に代表と賞が決まるわけで、点数が操作される隙はありません。

 変な憶測やうわさが流れるのは点数表を公表しない連盟の地域に多いです。隠されると疑ってしまうのが人間の自然な心理です。点数表を公表する連盟が増えましたが、まだ公表に踏み切っていない連盟もあります。われわれ審査員としてもむしろ公表してもらったほうが気持ち良いのですが。

審査がもめた?

 審査員控室は密室なので話し合いで代表や賞を決めているように想像されがちですが、それは違います。どの大会でも代表や賞は単純に点数や順位で決まりますし、同点の場合にも決選投票が行われるだけです。金賞・銀賞・銅賞の境界線をどこにするかを決めるための短い話し合いがされることはありますが、それ以外には評価に関する話し合いはありません。閉会式で審査員の代表が講評を述べる場合にはその内容について相談をすることがありますが、評価に関わることではありません。

 審査発表が遅くなったときに「もめているんだろう」と言われますが、そもそも話し合いはほとんどないので、もめることはありません。パソコンへの入力やプリントアウトや表彰状の記入(これは手書きだから大変!)などの作業に時間がかかっているだけのことです。

 控室で互いに影響を与えかねない発言、特に話題に団体名を出さないことは暗黙のルールです。では審査員はどんな会話をしているのか? たいていその土地の美味い食べ物や酒の話題など、くだらない話をしてリラックスしています。何も怪しいことはしていないという証にいっそのこと審査員控室はホールのロビーの一角などオープンな場所にしてしまえばどうでしょう。

出演者と癒着している審査員がいる?

 狭い日本だから出演者の誰とも知り合いでない審査員を見つけることは難しいでしょう。国際化が進んでいる現代だから、たとえ海外から審査員を招いたとしても完璧ではありません。審査をしていると同僚、同級生、先輩、恩師、後輩、教え子など、必ずと言っていいほど自分と親しい人が振っているバンドが出てきます。それを「癒着だ」と言われると辛いです。単なる偶然であり、避けられないことなのですから。

 しかし評価には断じて関係がありません。少なくとも私が今までに一緒に審査をした人の中では悪意のある評価をする審査員を一人も知りません。

 私自身も吹奏楽コンクールの指揮台に立ち、審査されるほうの立場を経験したことがあります。審査員は6名。すべて私と親しい人たちでした。私と同じ大阪音大の教員がほとんどで、つい10日ほど前には共に地区大会の審査員をした人もいました。「癒着」と言われても仕方のない状態です。しかし審査員たちは割り切って厳しい評価を下し、手厳しいコメントを書いてくれました。あらためて自分以外の審査員も親しい人に甘くないことを知り、同僚たちを頼もしく思いました。

 しばしば本番前に審査員に指導をしてもらおうとするバンドがあります。連盟の規則で禁じられていることもあるようですが、常識やモラルに委ねるということで特に定めていない連盟も多いです。仮に審査員が本番前にある特定のバンドの指導をしたとしても評価には影響はないでしょうが、誤解を招きやすいので避けるべきでしょう。

 打ち合わせのために連盟の役員と審査員との会食が催されることがあります。飲食を通じて審査員と役員が仲良くなっても実際には役員が指揮をするバンドに高い評価を出すことなどあり得ないのですが、やはりこれも誤解につながりやすいので正直なところ少し気が重いです。最近はそういう会は少なくなりましたし、あったとしても指揮をする人は参加をしない、あるいは参加をしても審査員には話しかけないことがほとんどです。

カネ(賄賂)が動いたに違いない?

 「ワイロ」...甘く怪しい響きがありますね。もらえるものなら一度もらってみたいものですが(冗談ですよ)、幸か不幸か一度ももらったことも、それをにおわされたこともありません。

 オリンピックなどでは(競技によって大きい差がありますが)金メダルと銀メダルではその後の選手の収入に億単位の差が出ることもあると言われています。しかし日本の吹奏楽は幸か不幸かビジネスとして成熟していません。

 仮に5人の審査員に50万円ずつの賄賂を包むとすれば250万円。250万円を使って金賞を得れば翌年の予算が250万円以上増えるでしょうか? そんなことはありませんね。どんなバンドでも250万円もあれば楽器の購入やホール練習の費用や講師費用などに充てるでしょうし、そのほうがずっと有効なお金の使い道であることは明らかです。馬鹿げたお金の使い方をするバンドはありません。

審査員は先入観を持っている?

 団体名を審査員に伏せて審査を行う、いわゆるブラインド審査を願う声を聞くことがあります。たしかにお客さんや出演者に公平性をアピールする効果は大きいと思いますが、実質的には意味がないでしょう。

 審査員は、仮に予備知識があれば先入観を持たないように心がけるのが常識ですし、それ以前にそれぞれのバンドの過去の実績を知らないことがほとんどだからです。前年に同じ地域の審査員をつとめたとしても、1年たてば結果はほとんど忘れてしまいます。たとえば私は毎年 300 くらいのバンドの演奏を審査します。1年前の演奏や結果を思い出せと言われてもできません。

審査方法がおかしい?

 連盟によってはプログラムに審査方法を明記していることもありますし出場バンドに配られる書類に明記していることもありますが、公開していない連盟もあります。これはおかしいか、おかしくないか以前の問題であり、やはり何らかの形でオープンにしなければ憶測と誤解を生む原因になります。

 「欽ちゃんの仮装大賞」のように、一団体ずつ演奏が終わるたびに評価を出してしまう方式はどうかという意見も聞きます。絶対評価にはメリットがありますが、金銀銅のバランスが大きく偏ってしまう可能性があり、現実的でありません。

 どのみち完璧な審査方法なんてありません。どんな方法でやったとしても必ずその方式に不満を訴える人がいるでしょう。それよりも、吹奏楽コンクールが全国規模のコンクールであるにもかかわらず各支部の大会の審査規定が異なっていることは問題と思います。

上下カットをすべき?

 最高点と最低点をカットすべきという意見をしばしば聞きますし、実際にその方式を採用している連盟もありますが、私は反対です。

 スポーツ界、特に国際試合ではよくある方式ですが、これは採点員が自国の選手に有利な採点をするのが慣例になってしまったためにやむなくこの方式が採られていると考えるべきでしょう。カットされるのを承知の上で自国の選手に高い点数を、ライバル国の選手に低い点数を出すことが採点員の一種の礼儀のようになっていることもあります。しかし吹奏楽コンクールにはそのような習慣はありません。

 仮に審査員が5名の場合、上下カットがされると団体ごとに2名の審査員が交代で休憩し、3名の審査員で判断したことになります。それなら最初から3名で審査したほうが公正ではないでしょうか。また、メリハリのある評価をする審査員はたくさん休憩したことになり、メリハリの少ない審査員の影響力が大きくなります。仮に上下カット方式を採用するなら少なくとも10名くらいの審査員が必要です。たいていの連盟では経費的に難しいでしょう。

 もうひとつ上下カットには問題があります。ある一人の審査員だけがその演奏の大きな長所や短所を発見した場合に、せっかくの発見を捨ててしまうことになるのです。私の体験でもそのようなことがあります。

 あるバンドが自由曲にあるオーケストラ曲のアレンジを選びました。原調の H Dur は難しいのでたいていのバンドは B Dur に移調された楽譜を使うのですが、そのバンドは原調で演奏しました。原調で演奏することの価値の論議は別として、難しい調で演奏しつつ完璧とは言えないまでも健闘したそのバンドの努力とこだわりはある程度高く評価して良いと私は考えました。結果的に私の評価だけが他の審査員よりも高くなりました。

 そう、たまたま審査員の中で絶対音感を持っていたのは私だけだったのです。その連盟では上下カット方式を採用していなかったので私の評価も反映されたのですが、もしその連盟が上下カット方式を採用していたとすれば、私の発見は生かされず、そのバンドのこだわりと努力は徒労に終わってしまうところでした。「最高点・最低点=間違った評価」ではないのです。

 このケースでは私だけが正しい評価だったと言っているのではありません。他の4人の評価も正しいです。いろいろな耳があっていろいろな評価が出る。だから審査員は多いほど良いのです。上下カットをして耳の数を減らすのは間違いです。

 例を挙げます。10点法で、5名の審査員で、平均が8.0以上が金賞、未満が銀賞というコンテストがあったとします。得点 10・8・8・7・7 のバンドは、上下カットをしなければ平均8.0で金賞ですが、上下カットをすれば7.7で銀賞になります。一方、得点 8・8・8・8・6 のバンドは、上下カットをしなければ平均7.6で銀賞ですが、上下カットをすれば8.0で金賞になります。

 このように上下カットによって賞が逆転することがあります。はたしてこれは公平でしょうか。

 そもそも上下カットの発想は審査員への不信感から生まれるものです。審査員を信じるなら上下カット方式を採用すべきでないですし、審査員に不信感があるならそもそもそういう人を審査員にしてはいけません。「審査員を厳選している」と言いつつ上下カット方式を採用する連盟は矛盾しています。

審査員はどのように選ばれるのか?

 詳しくは私も知りません。連盟によって違っているようではあります。審査員の側としてもどういう基準と経緯で自分が選ばれているのかに興味があります。これもおかしいかおかしくないか以前に方法を公表していない連盟が多いことが問題です。

 吹奏楽界に接点を持たない審査員を選ぶべきという声も聞きます。すでに吹奏楽界以外の審査員を「混ぜる」ことはしばしばあることで、これには私も賛成です。いろいろな種類の耳があったほうが良いですから。しかし審査員の全員を吹奏楽と接点を持たない人にするのは問題があるでしょう。

 全国大会のようにその先がない大会では音楽そのものの審査も良いと思いますが、技術レベルが高くない場ではやはり管打楽器に接点がある人のほうがベターでしょう。技術面での具体的なアドバイスをピアニストや声楽家などに書いてもらうことはできませんから。

審査員は好みで判断する?

 審査は人気投票ではありません。もし好き嫌いで評価して良いならとても楽ですし、それなら誰にでもできることです。審査という仕事はまさに自分の主観を殺す闘いであると言えます。大嫌いな演奏や曲でも客観的に見て優れていれば高得点を付けますし、感動させられた演奏に低い点数を付けることもあります。それが審査です。

 評価が割れた場合に「審査員の好みが分かれた」と単純に解釈されてしまうことが多いですが、それは違います。評価が割れるのはたいていレベルが拮抗している時です。どんな演奏にも優れた点と問題点があり、完璧な演奏もその逆もあり得ません。レベルが拮抗しているときには一人の審査員の頭の中でも「今の演奏はAと評価すべきか?Cと評価すべきか?それとも中を取ってBか?」と迷いが生じることがあります。そんな時に審査員それぞれの専門分野の違いなどによって違った判断が下されることになります。そのために複数の審査員がいるわけで、決して「好み」という安直な基準で判断されるものではありません。

 評価が一致しないからといって審査に不信感を持ったり、一人の審査員に低い評価をされたといって恨むのは愚かしいです。すべての評価を謙虚に受けとめ、その後の練習の糧にすることこそコンクールに出る意義でありましょう。

 「今回は○○先生がいるからガンガン鳴らそう」などといった審査員対策を講じるバンドも多いようですが、それは無駄な努力です。もしかすると私にも「対策」が講じられていたりするのでしょうか? だとしたらどんな対策? 猛烈に興味があります! もし「高橋対策」を講じている方がおられればぜひ教えてください。

審査員は曲で判断する?

 あり得ません。しかしそう信じて勇み足の選曲をするバンドが多いです。少しの背伸びならその曲と取り組むことでバンドの能力が伸びることもありますが、無理な選曲は演奏者にも聞き手にも苦痛です。

 平易な曲だが完成度の高い演奏と、難曲で完成度の低い演奏のどちらを高く評価すべきか...審査員は大いに悩まされることになるのですが、少なくとも曲の好き嫌いが評価に反映されることはありません。

審査員は始めだけ聞いて判断する?

 あり得ません。全部聴きます。

体を動かすと高得点が付く?

 そういう迷信があるようで、取って付けたような体の動きをするバンドを見ることがあります。マーチングコンテストと勘違いをしているのか、動きを合わせる練習をしたと思われるバンドもあります。もちろん自然に体が動くのは悪いことではありませんが、奇妙な動きをするバンドは発音が不安定になったりフレージングが不自然になるなど演奏に悪影響が見られることが多いです。

メールのやりとりをしている審査員がいる

 単純な誤解です。コメントを書いていて漢字がわからなくなったときに携帯電話を辞書代わりにする審査員がいるのです(私もしばしば)。コメントが誤字脱字だらけだとみっともないですから。その仕草がメールを送受信しているように見えるのです。

寝ている審査員がいる

 これも単純な誤解です。審査員席では小型の照明器具が使われることが多く、照らされた手元と周囲とに明暗差があってひどく目が疲れます。寝ているのではなく、目を休めるために瞼を閉じて聴くことがあるのです。あるいは、上記の「奇妙な体の動き」などに惑わされることなく音だけに集中するために瞼を閉じて聴くこともあります。

評価とコメントが一致しない

 そういうものです。明らかに代表になるであろうバンドには次の大会への課題として厳しく書くことがありますし、明らかに銅賞になるであろうバンドには意気消沈しないように気遣って書くこともあります。打ち合わせ時に連盟側から「教育的配慮のあるコメントを」と言われることもあります。

 コメントを受け取る側は「コメント=評価の根拠」と読みたがる傾向がありますが、必ずしも審査員がそのように考えているとは限りません。「評価は評価、コメントはコメント」と分けて考える審査員もいます。評価で自分の主観を殺している分コメントでそれが噴出することもあるでしょう。

 わかり切ったことは書かない、ということもあります。たとえばコメントでは「感動しました。ありがとう!」と絶賛しつつ評価は「C」。それは基本的なレベルで問題があったということです。「楽譜の読み間違いがあります」「音色が耳障りです」「発音が不安定です」「ピッチが合っていません」「タテの線が揃っていません」「バランスが悪いです」「速いパッセージが未消化です」などといった厳しい言葉が省略されていると考えて良いでしょう。

 そもそも審査員は忙しすぎます。次の演奏が始まるまでのわずかな時間に評価を出し、コメントを書かなければなりませんから。評価とコメントのどちらを優先すべきかといえば、明らかに評価です。じっくりと言葉を選んで書く時間はありません。言い訳がましいですが..。

 審査員によって正反対のコメントが書かれることも多いでしょう。そういうコメントを受け取ってしまったバンドは戸惑うでしょうし、審査員への不信感をもっていしまうことでしょう。しかしこれも大いにあり得ることです。

 たとえば歌おうとしすぎて表現がぎこちなくなったバンドがあったとします。それを短い言葉で評した場合に「歌いすぎ」にも「歌ってほしい」にもなるのです。

 音楽家の中には文章力が欠けている人もいます。どうか、舌足らずになりがちなコメントを上手に読んでくれることを願うのみです。

審査員は自分の専門の楽器しか聞いていない?

 これも「コメント=評価の根拠」ととらえられたときに生まれる誤解です。たとえば打楽器奏者の審査員なら打楽器セクションについて重点的にコメントするのを一種のサービスだと考えるのが普通です。どのみちすべての楽器に対してコメントを書くことなんてできません。その結果としてあるパートに関するコメントしか書かれていないとしても、そのパートだけで評価しているのではないのです。

そもそもコンクールって何だろう?

 審査員をしていてそんな根元的な疑問をもつようになりました。審査発表のとき、ステージ上から客席を見ていて妙なめまいを感じることがあるのです。

 「ゴールド、金賞」と告げられ歓声を上げる人たちに「喜びすぎ。君たちの演奏は寒かったよ」と、「銅賞」と告げられうなだれる人たちに「悲しむな。君たちには感動させられたよ」と心の中でつぶやくことが少なくないです。

 賞と感動は必ずしも一致しません。誰もがそれを知っているはずなのになぜかそれが建前になってしまい、誰もが金賞に狂喜乱舞し銅賞に絶望する。多くの人が結果を聞いてから金賞の演奏を絶賛し銅賞の演奏を否定し、純粋だった自分の感想を歪めて記憶にとどめてしまう。

 野球選手はよく「記録よりも記憶に残る選手になりたい」と言いますが、音楽こそそうありたいものです。「記録よりも記憶に残る演奏」を目指すバンドがもっとあっても良いと思うのですがどうでしょう。客席にいる人には上手いか下手かには関係なく感動させられたバンドに大きな拍手をする純粋さが欲しいです。審査員気取りで聞いていて楽しいでしょうか。審査なんて辛い仕事は審査員に任せて純粋に音楽を聞いたほうが楽しいと思うのですが。

 コンクールとはそういうもの...なのかもしれません。私はその答えを見つけられないまま審査をしています。

違法なコピーをやめましょうコンクールの迷信