私の編曲について

そのコンセプト、構想から出版まで、そしてただ今制作中は?


わが師曰く...

 自分の仕事を神秘化する気はないのですが...吹奏楽のスコアリングはオーケストラのそれよりもずっと難しい仕事です。オーケストラなら弦がサウンドの骨格を作り、木管楽器が彩りをつけ、金管楽器が輝きを与え、そして打楽器のリズムがそれらを引き締める、というふうに各楽器群の役割分担がはっきりしています。しかし吹奏楽ではそれが曖昧です。

 大学院生の頃、大栗 裕先生に言われたことがあります。大栗先生の下請けで(つまりゴーストライターをさせてもらって...もう時効かな?)オーケストラ用の編曲をして、それが思ったより良い音がしたので有頂天になっていました。

「オケは簡単や。よっぽど下手に書かん限り変な音はせん。けど吹奏楽はちょっと気ぃ抜くと途端に変な音しよるでぇ」

 柔らかな大阪弁でしたが私の胸はグサリと突かれました。


まず曲を選ぶ

 私は何でもかんでも吹奏楽に編曲してしまおうとは考えていません。

 私の合奏の授業では音楽の三要素(リズム・メロディー・ハーモニー)を学生に感得させることを特に重視しています。「バラの謝肉祭」などオーソドックスな吹奏楽曲から始めて徐々にグレードを上げていきます。そうすると学生からの要望もあってオーケストラ曲からのアレンジ物を取り上げることになっていきます。吹奏楽を専門とする学生はオーケストラを体験することが少ないのでせめてシミュレーションで体験して欲しいとの思いもあります。

 吹奏楽は20世紀になってやっと編成が定まって野外ではなくコンサートホールでの演奏がされるようになったので音楽史の上で一番おいしいところ、つまりバロック、古典派、ロマン派の音楽がレパートリーから欠けてしまいます。コンサートのプログラムにも教材にもバロック、古典派、ロマン派の音楽は必要になります。その穴埋めをするのがわれわれアレンジャーの仕事だと考えています。

 ところが特に市販の古い編曲譜にはスコアリングが厚すぎるものが実に多いです。たとえばバスーン奏者が「さあ私のソロだ」と気構えて吹いたらトロンボーンもユーフォニウムも一緒に吹いていた、などはざらです。おそらく野外などで演奏しても効果があがるように、または編成が整っていないバンドでも演奏しやすいように考慮されているのでしょう。そこで納得ができる編曲譜が出版されていない曲は自分で編曲することになります。

 ついオーケストラからの編曲が多くなりがちですが、ピアノ曲やオルガン曲からの編曲のほうが自由にイメージを膨らませられる分やりがいがあります。


そして調の選択

 オーケストラは弦の都合でシャープ系の調が得意、そして吹奏楽はフラット系の調の方が技術的にも楽で響かせやすいことが多いです。だから特にオーケストラからの編曲をする場合、調の選択で悩むことが多いです。管楽器での演奏のしやすさだけでなく調性の色も考慮に入れなければなりません。

 ハ長調、ニ短調...24の調にはそれぞれ固有の色合いや性格があります。もちろん原曲の作曲家は自分の音楽を表現するのに最も適した調を選択しているわけです。それはなるべく尊重したい。

 たとえば私が編曲した「ロザムンデ序曲」が他のアレンジャーのものとは違って原調なのは演奏のしやすさよりもハ長調がもつ色を優先させた結果です。当然他のアレンジャーによるものよりも少し技術的に難しいです。

 調の選択でその編曲が成功するか失敗するかが決まると言っても過言ではありません。


原曲に忠実? それとも...?

 私の編曲は原曲に忠実と言われることが多いです。しかしそのように評されることは不本意です。忠実でないものも多いからです。たとえば「G線上のアリア」はかなり自由な編曲ですし、「展覧会の絵」は M.ラヴェルのオーケストラ編曲版を無視してピアノの原曲から大いにイメージを膨らませて作ったものです。

 私は曲ごとに、忠実に移すべきか、それとも自由に自分のイメージを膨らませるべきか、それともその中間であるべきかと考えます。言い換えればその曲が直訳がふさわしい音楽か、それとも意訳がふさわしい音楽かを考えるということです。


Macintosh & Finaleサマサマ

 以前は製図板と製図器を使ってスコアを書いていましたが、今は Macintosh と Finale を使います。

 スコアが出来上がったら音源を使ってチェック。机の上の電子吹奏楽団に演奏してもらうわけです。


そしてバンドで演奏

 私の編曲はもともと大阪音大での教材として制作したものがほとんどです。そして演奏は出来る限り多くのバンドで音にする機会を得るようにします。

 異なったバンドで演奏することで様々な問題を発見できます。バンドのメンバーにはミスや問題点をどんどん指摘してもらって推敲を重ねます。


汎用にする

 出版社に送る前に汎用になるように少し手直しをします。たとえばバスーンがないバンドのためにどこかのパートにキュー(小さな音符)を加えるなどするわけです。手書きで楽譜を作っていた頃には面倒なのであきらめていた作業です。

 しかしどんなバンドに演奏されるか不明な状態で手直しをするのは難しい作業です。中学校バンドにもプロバンドにも、大編成バンドにも小編成バンドにも、ヨーロッパのバンドにもアメリカのバンドにも日本のバンドにも...考えていると頭痛がしてきます。


いよいよ出版社へ

 手直しが仕上がった楽譜のデータはオランダのデ・ハスケ社に e-mail で送ります。

 出版が決まるとエディタが楽譜をデハスケのスタイルにし、 PDF が送られてきます。それを確認すれば校正は終わり。便利になりました。


そして悩む...

 編曲はその作品の編成を変えて新たに音楽的な魅力を引き出せなかったら芸術としての存在価値がありません。私は編曲をしながらその作品の作曲者に「これはあなたの作品への冒涜か?」と心の中で問い続けます。時には「ミューズの神よ、私は行いは善行か?」とも。一切の宗教を信じない私も編曲をするときだけは神を恐れます。

 白状すると、私の編曲譜のすべてに芸術的に高い価値があるとは思えないのです。しかしそれが出版されて全世界に流布される。「より良い教材を」の一念で作ったものが世界のバンドのレパートリーになるのはとても嬉しいことなのですが、自分の仕事が必要悪であることを認めざるを得ません。

 編曲は翻訳に似ています。大岡昇平氏が訳したスタンダールの「悪の華」。すっかり日本語の詩になっていて、それでいてフランス語の香りを十分に楽しめます。そんな翻訳(編曲)を作るのが私の夢です。

 自己矛盾に苦しむ毎日です。